退職一時金を基本給に振り替える前に、会社として考えておきたいこと
王子ホールディングスが退職一時金の廃止に踏み込むというニュースを見て、「ここまできたか」と感じた方も多いのではないでしょうか。
賃上げ基調への対応策として、賞与の基本給化はこれまでも議論され、実際に見直しを進める企業も出てきました。そうした流れの延長線上で、退職一時金の見直しも今後さらに現実味を帯びたテーマになっていくはずです。
ただ、退職一時金は長期雇用を前提としてきた制度でもあります。その見直しは賃金配分の変更にとどまらず、企業が人材にどう報いるかを問うものでもあります。
だからこそ、この論点は大企業だけの話ではありません。中小企業にとっても、採用競争力をどう確保するか、社員の定着をどう考えるか、人件費をどう配分するかという問題に直結します。本稿では、退職一時金を「残すのか、それとも基本給に振り替えるのか」を考える際の判断軸を整理します。
判断軸① 人材マネジメントポリシーとの適合性
まず問うべきなのは、その制度が自社の人材マネジメントポリシーと整合しているかという点です。
長期雇用を前提とするのか、一定の人材流動を織り込むのか。定着を重視するのか、採用競争力を重視するのか。報酬を後払いで考えるのか、前払いで考えるのか。退職一時金の位置づけは、こうした考え方と切り離して判断できません。
ニッチな技術を強みとし、即戦力人材が市場に少ない企業であれば、自社で人を育てていく発想になりやすく、退職一時金は長期的な関係を支える制度として機能しやすいでしょう。長く働くことに意味を持たせる仕組みとして、制度の意義は比較的大きいはずです。
一方、一定の人材流動を織り込みながら、即戦力人材を外部から獲得していく方針の企業であれば、退職時に厚く報いるより、在職中の基本給を厚くした方が現実的な場合があります。特に採用市場で給与水準の見え方が重要になっている局面では、その傾向はより強まります。
制度変更を検討する際に大切なのは、「世の中の流れだから」で判断しないことです。まずは、自社がどのような人材マネジメントを目指すのかを明確にし、その方針に照らして制度のあり方を考えなければなりません。
判断軸② 効果性
次に、どのような効果が見込めるのかを見ていきます。ここでは、会社と社員の両面から考える必要があります。
【会社視点】採用競争力の強化
基本給化の主な狙いとして、まず挙がるのが採用競争力の向上です。
初任給30万円といった募集要項が特別ではなくなりつつあるなかで、企業には基本給水準の引き上げが求められています。しかし、ベースアップを継続するのは簡単ではありません。総額人件費には限りがあり、原資をどこから捻出するかが課題になる企業も少なくないでしょう。
そうしたとき、退職一時金の原資を基本給に再配分することは、有力な選択肢の一つになります。とりわけ、採用時に給与の見え方が重視される職種や、競合他社との比較が避けられない採用市場では、一定の効果が期待できます。
【会社視点】長期的な定着メッセージとのトレードオフ
もっとも、退職一時金には別の意味もあります。長く働くほど報われるというメッセージを制度に込められる点です。
特に時間をかけて人を育てる企業にとって、退職一時金は長期的な活躍を期待する人材マネジメントと相性のよい仕組みです。短期的な成果だけでなく、長く働き、経験を蓄積し、組織に貢献していくことに価値を置くのであれば、退職一時金を維持する意味は十分にあります。
つまり、基本給化には採用競争力を高める可能性がある一方で、退職一時金を残すことには定着や育成を後押しする意味があります。どちらを重視するのかを見極める必要があります。
【社員視点】キャリアの自由度向上
社員側から見ると、基本給化にはキャリアの自由度を高める側面があります。
多くの退職一時金制度では、自己都合退職時の支給額が減額される仕組みが採られています。見方を変えれば、長く勤めるほど報われる制度設計だと言えますが、終身雇用を前提としない働き方が広がるなかでは、その考え方に納得しにくい社員がさらに増えていく可能性もあります。
その意味で、後払い賃金を前払い化することには一定の妥当性があります。退職時ではなく、在職中の処遇として受け取れる方が、社員にとって納得感が高い場面もあるでしょう。将来の不確実性が高い時代だからこそ、今の報酬として受け取れることに価値を感じる人も少なくありません。
【社員視点】安心感や資産形成機能の喪失
ただし、退職一時金をなくせば、それで単純に社員にとって望ましいとは言えません。
退職一時金には、老後資産形成を支える役割があり、半ば強制的な貯蓄機能もあります。毎月の基本給として受け取る方が自由度は高まる一方で、結果として使ってしまい、退職時にまとまった資金が残らないこともあり得ます。
また、退職一時金は金額そのものだけでなく、「いざというときの備え」としての安心感にもつながっている場合があります。制度を見直す際には、こうした価値にも目を向ける必要があります。
<留意点>税制優遇の喪失
加えて、税制上の取り扱いにも注意が必要です。
退職一時金には、退職所得控除などの税制上の優遇があります。これを基本給に振り替えると、同じ原資を受け取る場合でも、税金や社会保険料の影響によって、社員の実質的な手取りは変わってきます。
そのため、「総額としては同じだから問題ない」と単純には整理できません。制度変更を考える際には、名目上の支給額だけでなく、社員の実際の受け取り方まで含めて見ておく必要があります。
判断軸③ 実現性
最後に、それは実際にできるのかを見ていきます。
【会社視点】制度設計と運用
退職一時金の基本給化が難しい理由の一つは、退職一時金の水準が人によって大きく異なることです。
年齢や勤続年数、等級、役職などによって、将来的に想定される退職一時金は大きく変わります。さらに、将来どのようなキャリアを歩むかは誰にも分かりません。昇進の有無や勤続年数によっても金額は変わるため、「本来得られたはずの金額」を正確に見積もるのは容易ではありません。
そのため、既存社員には従来の退職一時金制度を維持しつつ、今後入社する社員には適用しない、といった制度併存を選ばざるを得ないケースも出てきます。もっとも、その場合には制度や運用が複雑になり、規程改定や給与運用、説明対応などにも相応の工数がかかります。
改廃に伴う制度設計そのものよりも、どう移行させるかの方が実務上は難しい。ここは軽視できないポイントです。
【社員視点】心理的受容性
さらに、制度として妥当でも、社員が納得するとは限りません。
例えば、「将来、部長まで昇進すれば相応の退職一時金が受け取れたはずだ」と考える社員にとっては、基本給化によって目先の処遇が改善されたとしても、「将来の可能性を失った」という感覚が残ることがあります。制度上は説明できても、感情の面で受け入れられないことは十分にあり得ます。
また、制度併存を行う場合には、同じ仕事をしていても、退職一時金の有無によって基本給水準に差が生じるケースも考えられます。理屈のうえでは整理できても、「自分だけ不利なのではないか」という感情が生まれれば、モチベーションの低下や離職といった副作用につながりかねません。
人事制度の変更では、制度の正しさだけでなく、社員がどう受け止めるかも見落とせません。不公平感が強まれば、制度として成り立っていても、実際にはうまく機能しないからです。
おわりに
以上、本稿では、退職一時金を「残すのか、それとも基本給に振り替えるのか」を考えるうえで、どのような軸で検討すべきかを整理しました。
近年の賃上げ基調や人材流動性の高まりを踏まえると、退職一時金の基本給化という流れは、今後さらに議論されていくはずです。実際、採用競争力の観点から見れば、基本給に厚く配分することの重要性は今後ますます高まっていくでしょう。
一方で、退職一時金の見直しは、単なる賃金配分の問題ではありません。自社がどのような人材マネジメントを目指すのか、その考え方が問われるテーマでもあります。
また、このような制度変更は、金額や制度設計の話だけでは済みません。社員はそれを、会社が社員との関係をどう考えているかの表れとして受け止めるからです。
最終的に問われるのは、「この会社の言うことなら信じられる」と社員に思ってもらえるだけの関係性を築けているかどうかではないでしょうか。来るべき変化に備えるうえで必要なのは、制度そのものを議論することだけではありません。日頃から社員との信頼関係を積み重ねておくことも、同じくらい大切です。
