【森中】一律定額ではない役職手当がある?(2)
(前回を見ていない方は、まず「一律定額ではない役職手当がある?」(1)をご覧ください)
前回、「一律定額」以外の役職手当の支給方式があることについて述べたが(ある統計データでも、一律定額方式の採用割合は6割を切っている)、今回は筆者の経験した具体的な事例を見ていくこととしたい。特に、それぞれの会社が異なる仕組みを設けている理由について注目していただきたい。
まずは、同じ職位でも役職手当の金額を変える方法について。販売会社の事例だが、営業部の課長が「7万円」、それ以外の部門の課長が「5万円」となっている。このような仕組みを設けた理由として、営業部隊が組織上最も人数が大きく、営業課長が抱える部下の人数、課せられる責任が他の部署と比べて全く違うため、営業課長の業務上の負担やモチベーションに配慮すべき、ということが挙げられる。逆にこのような理屈が立てられないケースでは運用が難しい方法であるとも言える(役職手当の低い部署の課長のモチベーションが下がるし、部署異動によって役職手当が下がる場合の説明も難しい)。
次に、人事評価で役職手当の金額を変更する方法について。部長の役職手当が8万円であり、それはS・A・B・C・Dの5ランクの評価のうちB評価の金額となっている事例である。役職手当は評価ランク1段階ごとに1万円ずつ変動するドラスティックな仕組みであり(S=10万円、A=9万円、B=8万円、C=7万円、D=6万円)、評価結果によって毎年変動する。このような仕組みを設けた理由としては、本来役職手当は「与えられたポストでの役割遂行及び責任の負担」に対して支給しているものなのだから、成果によって金額を変えたい、という経営者の意向があった。
人事評価の結果は定期昇給や昇進昇格、賞与といった処遇には反映されるものの、一般的に役職手当まで反映されることは無い。役職手当に反映させることのメリットとしてはポジションの重みに対する役職者の意識を高めることができる、ということが挙げられるだろう。しかし、その分人事評価結果の客観性・納得性については高い精度が求められるし、年に1回の変更であれば、役職手当が下がった場合の対象者に対するケア(翌年は下がった状態でスタートするため)も慎重に行う必要がある。そもそも、そこまでやるのは厳しすぎる(パフォーマンスは定期昇給や昇進昇格、賞与で反映すれば十分)という意見もありうるだろう。運用側の明確な狙いと評価に対する十分な説明ができる体制が不可欠と言える。
次に、基本給等の一定率を役職手当として設定する方法について。非常にイレギュラーなケースであるが、過去、学校法人の給与制度で見かけたことがある。例えば課長は「基本給の10%」となっており、基本給40万円の課長であれば4万円となる。長年勤務していて基本給の高い社員であればメリットを感じることができるが、例えばまだ基本給が高くない状態で抜擢された社員はメリットを感じにくく(法人にとっては手当を抑えられるメリットがあるが)、運用が難しい仕組みであると感じた。そもそも、役職手当をどちらかというと年功的・属人的に運用しようとする考え方は一般的には馴染みにくいと言えるだろう。
最後に、役職手当の金額に予め幅を設ける方法について。これも珍しい仕組みであるが、例えば「マネージャーの役職手当40,000円~60,000円」といった具合である。筆者が経験した事例では、「役職手当の変更は業務実態を見て、社長が定期的に変更する」というルールになっていた。
このような仕組みを設けた理由としては、小さい金額幅で役職手当を変更したいという経営者の意向があったことが挙げられる。もっとも、この場合は「役職手当の額を柔軟に上げることができるようにしたい」という意味で、下げることは想定していなかったため、比較的運用しやすかったようである(人事評価等の客観的なツールを用いず、経営者の主観だけで役職手当を下げるのは法的にも問題があると考えられるため、推奨できない)。役職を上のクラスにアップさせることができない場合でも、現役職の中で熟練していることを評価し、処遇にフレキシブルに反映させることができるという点ではメリットがあると言える。しかしながら、受け手としては不透明感が高い仕組みであるし、曖昧な状態で運用することで逆に不公平感を感じさせてしまう危険性もあるため、対象者に対して、手当額を変更する際には都度十分な説明を行うことが求められることは言うまでもない。
以上から、「役職手当が一律定額である」ために使いにくさを感じ、実態に応じて運用を変えたいというニーズがあることが理解いただけたかと思う。しかし、上記のような変形パターンを社員の納得が得られるよう運用するためのハードルは決して低くない。その点では、改めて「役職手当は一律定額である」ことが一般論として受け入れられているという事実は、人事制度の設計において一定の制約を受けるという点において大きな意味を持つものと言えるのではないだろうか。